祖母から昔話を聞かされると、だいたい枕詞のように「あの頃は貧しかったからね」という言葉が出てくる。それは祖母に限らず島のお年寄りはみんなそのようで、今回取材するまで、自分のようにルーツはあるものの都会で生まれ育った立場にはピンと来ないものだった。
そんな「貧しかったあの頃」を読み解くには、大山(おおやま)に行くといい。戦後8年間、アメリカの統治下にありながら復興を後回しにされ、自給自足や物々交換でしのがざるを得なかった時代、大山は建材や食べ物など与えてくれた恵みの自然だということが分かった。
えらぶの山頂周辺はえらぶじゃない?
「これが基盤岩と石灰岩の境界です。沖永良部島は、基盤岩である花崗閃緑岩が沈んで、それを覆ったサンゴ礁が石灰岩になった。だから赤土が基盤岩か石灰岩のどちらが風化したものかで酸性かアルカリ性が違うため、植生も変わるんです」
そう言って2色の岩を指さして解説する人物の名前は、新納忠人(にいろただひと)さん。沖永良部島・知名町で「えらぶ(沖永良部島のこと)の植物博士」として30年以上に渡り植物の記録を続けている。
沖永良部島は、メディアなどで「サンゴからできた琉球石灰岩で覆われた島」として紹介されることが多い。実際に島内の浜を巡っても石灰岩が続くばかりで、グレーで刺々しく荒涼な風景は「地獄の針山」を想像させる。そんな印象から、島民でもそう認識する人は多い。
なぜなら太古にサンゴ礁が隆起してできた島だから。といわれるが、実は島の最高峰である大山(標高は240メートル)の山頂から60メートルは水没しておらず、かろうじて海面から顔を出していたとされる。そのため島全体で見ればわずかだが、山頂周辺は世界遺産の奄美大島にも通じる琉球石灰岩の上には存在し得ない植生が存在している。
誰でも通り抜けられる散策路が整備されているが、「存在を知らなかった」と言う島民も少なくはない。しかし、散策路となるより前、島内外の物資の行き来が難しく自給自足が当たり前だった時代、その山頂周辺は島人の暮らしにとって大切な恵みをもたらす場所だった。
建材、釣り具、正月飾り、大山の植物がもたらした恵み。
散策路に通じる入口は、大山総合グラウンドそばにある。
島に長く住む人なら、すぐに平地とは異なる景色だと思うだろう。辺りの植物をつぶさに見ると、名前は分からずとも、普段は目にしないものが顔を出していることに気づくはずだ。
この木はその特徴を生かして重宝された時代があると、新納さんが教えてくれた。
「これはイジュといって、ここの植生を表す代表みたいな木だね。堅く真っ直ぐ伸びていて建材に使いやすいので、高倉の柱になった。皮を剥げば魚毒(サポニン)も出るから、干潮のときに潮だまりに入れると魚が浮いてきて捕ることができましたよ」
今や、建材はすべて島外からの輸入品。もはや島でも日本でも輸入に頼る構図は同じだが、流通網が発達する以前は、島の暮らしは島にあるもので賄うことが大前提だった。
とくに沖永良部島は戦後8年間、アメリカの統治下に置かれていた。このため日本はもちろん、沖縄の復興が優先されたアメリカにも支援は期待できない状況で、自給自足で物々交換が当たり前。高校の教室も土間に茅葺屋根で、その建材も大山から採ってきたという。
「でも、大きい木がなくて教室の床は隙間だらけでね。悪い男子は下にもぐって床下から女子のスカートを覗いたりしてたよ(笑)」
建材などの生活必需品ばかりでなく、正月飾りなど生活を彩るものも大山から採っていた。島の正月は、竹、松、ユズリハを組み合わせて門松を作り、センリョウとマンリョウという植物を床の間に飾る。そこで年末が近づくと、山まで採りに入る人も多かったという。
ちょうど本記事の取材日も年末。向かいからセンリョウを持った70~80代の男性が歩いてきて、新納さんに「マンリョウはすっかり見なくなった」とぼやいて立ち去っていった。
大山の山頂周辺はこの通り、希少な植生であると同時に、植物は建材や釣り具、正月飾りといった暮らしの恵みとなる。ほかにもクチナシの実などの染料や、イチゴやヤマモモなどのちょっとしたおやつも手に入る。
島外からいろんなものを手に入れられるようになった一方、島内から手に入れなくなったものも増え、人の手が入らないことで資源と知識をどんどん失っていっているということに気づく。増えた外来種によって在来種が圧迫されるということも起こっている。
ただ、外来種の中でも牛の飼料に使うネピアグラスなどもある。
また、島の文化や歴史に影響を与えてきた自然は何も植物だけではない。
自然が形づくる島の文化や歴史
山頂周辺を流れる何の変哲もない小川も、実は島では珍しい光景だ。
琉球石灰岩は孔だらけのスポンジのような形状で、島に降る雨水が保水されず下へ下へと染み込んでしまうため地表に溜まらない。この特徴が島の地下に300近い洞窟を生み出し、暗川(くらごう)と呼ばれる洞窟を水源として集落を築き、字(あざ)という現在の行政区分の基盤となった。
写真は、ある日突然、祖母が買い物袋を頭に載せて運んで慌てて撮ったもの。これもまた、かつての水源は洞窟で、水の入った重い桶を運ぶ暮らしから生み出された文化。実際に、かつて洞窟から島人が水汲みをする様子を撮った写真には、頭上運搬を行う姿が写っている。
琉球文化圏のお年寄りは長寿だというが、意外とこうした生活様式によって足腰の強さが培われ、健康寿命を延ばしているからなのかもしれない。
また、島の基幹産業である農業においても、もちろん自然は無視できない。というのも、現代のように重機で人の都合に合わせて自然を加工できるようになる前、自然の都合に合わせて人が農業を営むことが前提だった。そこで石灰岩地帯で積極的に利用されたものが、ドリーネだ。
ドリーネは石灰岩の地下の空洞が広がり、表層が崩落して生まれる陥没孔のこと。これが台風常襲地域である島において自然由来の風除けとなり、耕作地にするにはおあつらえ向き。
新納さんの話では、昭和50~60年頃に「サンゴ礁排除事業」という、耕作地にしているドリーネの周辺の石灰岩を除去することで面積を広げて収穫量を増やす事業が行われた。すると、雨が降って、海が島をベルト状に取り囲むように茶色くなるほどの赤土流出が起こったという。
次は、その対策として赤土を法面で覆うなどの補強を行ったが、これはこれで農作物に害を与えはじめたためまた方法を変えたり…などと、試行錯誤を繰り返してきた。人にできることが増えれば増えるほど、自然との付き合い方は慎重さが求められているように感じる。
自然と人のバランスを考える
そんな島の人と自然の関わりを教えてくれた新納さんが、植物について調べはじめたのは30代後半になってから。きっかけは「名前が知りたい」という純粋な好奇心。本土の図鑑には載ってない植物も沖縄の図鑑に載っており、おもしろくてのめり込んでいったという。
記録を続けるものの成果を誰かに伝えることはなかったが、周囲の勧めと協力から、2020年に沖永良部島の植生をまとめた本「奄美植物民俗誌:沖永良部島の事例より」を発刊。「研究者ではなく愛好家。専門家扱いされてプレッシャーですよ」と照れるように笑う。
しかし、30年以上に渡って島の植物を観察し続けてきたのだからそれはもう研究だ。最後に、そんな新納さんに、これまでを振り返って感じている島の環境の変化について尋ねた。
「記録をはじめた頃にはあったのに、今は見られなくなったものがあることですね。一番大きな変化は、田んぼがなくなり、水生生物がいなくなったこと。耕地だったところが原野になったりと、人間のつくる環境で植物も出たり入ったりする」
確かに、自然が変わって人の暮らしが変わることもあれば、逆に人の暮らしが変わって自然が変わることもあるだろう。今回、新納さんから、植物だけでなくその暮らしとの関わり合いを聞いたことで、お互いに与え合う影響が大きいことをハッキリと感じることができた。
自然はただ見ていて癒されるとか、一線を引いて扱うものではないのではないか。もしかしたら、人にできることが増えれば増えるほど、その振り幅の大きさに伴って自然が振り回されているのかもしれない。それは回り回ってしっぺ返しにもなる。赤土の流出が良い例だ。
最後に、新納さんから、島の人に伝えたいメッセージをいただいた。
「当たり前になっているからか、島の人は自然に積極的に関わらない。でも、関心を持つことは保護にもつながる。たとえば昔は、お祝いごとで何かを包むときにクワズイモの葉を使って、藁で縛って持って帰っていた。できることから、関わってほしいなと思いますね」
大山散策路
知名町散策路紹介ページ:https://www.town.china.lg.jp/kikakushinkou/asobiniku/asobikata/yamahen/sono1/index.html
Map:https://goo.gl/maps/S7vm53ii7WZ8xr7EA
※散策路の入口は複数あります。詳細は知名町農林課(TEL:0997-84-3164)にお問い合わせください。