しまのま
生活と文化とわたし

沖永良部島民はみんな知っているテレビ局

「はい、みなさんで元気よく体操しましょう~」

家に帰ると、快活な声が縁側から漏れている。そのままトントンと玄関を上がって居間に目をやると、ソファに座ってじっとテレビを見つめる祖母の背中。画面には、二人の女性が映され、一人は立ち、もう一人は座り、手足を振って元気よく体操している姿が映っていた。

体操に合わせて足踏みする祖母

そのテレビ局の名前は「ERABUサンサンテレビ」。「サンサンテレビ」「サンテレ」という名称で親しまれる、沖永良部島の和泊町にあるケーブルテレビだ。台風常襲地域であり、また琉球文化圏である沖永良部島において鹿児島だけでなく沖縄のテレビ番組を受信しようという目的で1996年に整備された。2014年、行財政改革の一環で民間へ委託されている。

「島の記録係」として行事やイベントはもちろん、行政からのお知らせ、船や飛行機などの運行情報、過去の貴重なアーカイブ映像、飲食店などの紹介番組、ALT(外国語が母語である外国語指導助手)が登場する英会話番組など、さまざまな内容を放映している。町内世帯93.7%が契約しており、和泊町民でサンサンテレビを知らない人はいないと言ってもいい。

しかし、知名度の一方で、その制作現場は「知る人ぞ知る」といったところだ。どんな人が、どんな思いで作っているのか。そんな話を伺うべく、サンサンテレビに密着した。

和泊町中心地にあるサンサンテレビのオフィス

知る人ぞ知るサンサンテレビのスタジオへ

ちょうどオフィスを訪れたとき、スタジオではリハーサルが行われていた。スタッフ間で交わされる言葉は機材や放送内容の確認が中心で、やや緊張感に包まれている。

普段は収録で使われるスタジオも、この日は月に一度のMBC(南日本放送)との生中継。島の旬の景色を伝え、鹿児島市のスタジオと掛け合いを行う。鹿児島は全国でも長崎に次ぎ離島の多い県だが、沖永良部島のように番組制作はもちろん、中継機能がある島は珍しい。

MBCにチャンネルを合わせたテレビ。現場の声とテレビの声に生まれる時差が生々しい。

沖永良部島といえば、ユリ、洞窟、じゃがいもなどがアイコンだ。そんな言葉の並びからは想像し得ないメカニカルな設備が整っている。

サンサンテレビのスタッフは7人おり、そのうち民間事業者としての独立時からいる人物は2名。現在は「取材班責任者」という肩書きを持って活躍する森栄興さんは、どんな経緯でサンサンテレビで働くことになったのか、仕事を通しての醍醐味などを教えてもらった。

テレビの主役は、東京はカメラ、島は人。

「もともと親とは30歳までに島に帰ると約束して、都内のテレビ制作会社で働いていたんです。そんなときに知り合いから『島でサンサンテレビが職員募集をする』と教えてもらって、『これだったら』と迷うことなく応募しましたね」

家業もあるし、帰ったら帰ったで何かはあると考えていた森さん。しかし、東京での経験がそのまま活かせる仕事は渡りに船。だが実際にはじめてみると、同じテレビの仕事でも、全国放送のスタジオ収録や生中継と、島のケーブルテレビは、その違いが大きかったという。

「東京では全国放送など規模も大きく、スタジオで撮っていないスペースができたら別のカメラでカバーする連携プレーという感じ。しかし島は一台で回すのではじめは勉強が必要でした。また、東京は企画や台本ありきでしたが、島では日常を撮るという違いがあります」

全国放送と違い、島では「カメラを持ってお邪魔する」という感覚だと話す森さん。

学校行事を通して子どもの頃から撮っていると、自然と顔見知りになる。また、小・中・高と成長する過程を見るので、「名前と顔が一致して誰か分かるようになる」と話す森さん。

そんな映像記録で盛り上がるイベントが、成人式だ。サンサンテレビでは和泊町内で小学一年生にあがった子全員にインタビューを行う企画があり、その様子は十数年の時が経って、成人式のときに本人たちの前で映像を流すという。言わば映像のタイムカプセルだ。

小さい頃からテレビカメラが入るので、子どもたちも撮られ慣れている様子。

「島の人にとって、知っている人がこんなに出てくるテレビ局はないですよね(笑)。あとは島に多い高齢者にも強い。足が痛くて地域の行事などに行けなくても、テレビを通して様子を知ることができる。これも島ならではでないかと思います」

そんな活動の中で、撮られることから、撮る側に興味を持ってサンサンテレビに就職した人物もいる。2021に入社、先の生放送でもアナウンサーとして活躍していた前沢綾香さんだ。

サンサンテレビのかっこいい顔を伝えたい

小さい頃は、サンサンテレビは、「文字広告ばかりのテレビ」という印象だったと振り返る前沢さん。しかし、そんなイメージに変化が生まれたのは中学生のときだった。

「ボランティア部というなんでもありみたいな部活があって、サックスアンサンブルで地域のイベントや慰問で演奏することが多かったんです。それでよくサンサンテレビに撮ってもらうことが多くて、少しずつ『ありがたいなー』と思うようになりました」

高校に上がり、島内のイベント司会者として人前に立つことが増えた前沢さん。するとサンサンテレビの取材対象は「部活」から「自分」に変わり、感謝が増すと同時にあることに気づく。「サンサンテレビって、こんなに喜んでもらえる仕事なんだ」―。

放映スケジュールシステムを操作する平田さん

撮影中の森さん(左)と冨嶺さん(右)

一方で、そこで感じた魅力が視聴者に伝わっているのかが気になった。直接接したから分かるものの、そのかっこよさが伝わらないことはもったいない。自分も輪の中に入って伝えたい。そして高校一年のうちに「サンサンテレビで働きたい」という想いが固まった。

しかし、自分はもっと勉強したい。将来の進路は、「メディア」や「地域活性」に関わる分野に。大阪で働いて学費を貯めたものの、希望していた専門学校の学部が廃部になってしまい、ならばと社会人として企画を学ぼうと大阪にあるデザイン会社に就職した。

「そこで一年半働いたあとですね。(サンサンテレビの)社長から『うちで働かないか』と声を掛けてもらったんです」

目標だったサンサンテレビ。しかし、デザイン会社で学ばせてもらった恩返しはこれからというタイミングで、選択についてかなり悩んだという。最後は、「今を逃すとチャンスはない」と考え、前沢さんはUターンし、サンサンテレビの新たな一員となることを決めた。

提案したことはサンサンテレビのみんなで実現させてくれ、居心地がよいという。実際、前沢さんが合流したことで、島のトレンドを発信する番組の企画、Instagramの発信、また冒頭のMBCの生中継の充実など、サンサンテレビの存在感はひと回り大きくなった印象だ。

サンサンテレビを「ずっと青春を感じ続けさせてくれる場所」と表現する前沢さん。官民両方の性格を持っていると、何から何まで実現できる環境だとは言えない。その学びを頭に入れて、インターネットの利用など、今の時代に合わせた発信をしていければと考えている。

サンサンテレビのスタッフとしてだけではなく、前沢綾香個人としても発信への想いは強い。「全国放送に出たいです。前にNHKが組んだ沖永良部島特集で九州エリアまではいったんですが、次は全国。大阪でお世話になった人たちにも見てほしいです」と意気込む。

島とテレビとメディアの多様化

島の記録係として、沖永良部島の26年間を映像に残しつづけてきたサンサンテレビの功績は大きい。記録という行為を抜きにして、地球上の誰も過去を二度と目撃できない。沖永良部島は、言わば大きなアルバムを持っていると言える。しかし、時の流れの中で、メディアのかたちは「家庭のお茶の間」から「個人の手のひら」へと大きく変わってきた。

前沢さんも話していたように、インターネットを使うのかどうかも含めて、「変わりしろ」は無限。しかし、「島民に届ける」というその本質はどこまでいっても変わらないだろう。

サンサンテレビのポーズで撮影!

ERABUサンサンテレビ
所在地:〒891-9112 鹿児島県大島郡和泊町和泊10番地
HP:https://r.goope.jp/erabu-sstv
Instagram:https://www.instagram.com/erabusansantv/
視聴方法:サンサンテレビを視聴したい方は、和泊町役場一階「ゆいホール」入口脇に設置されたテレビで常時放映しているのでそちらまで。ホテルの場合は、和泊町内に限ります。事前に宿泊先までお問い合わせください。

ネルソン水嶋

1984年大阪出身、母の故郷は沖永良部島・国頭のえらぶ二世。2020年夏に移住、ライターやYouTuberとして島暮らしの様子を発信。「地域づくりと多文化共生」というテーマでTシャツ制作など事業展開中、詳細は本人まで。

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