しまのま
生活と文化とわたし

奄美群島や沖縄で盛んなさとうきびの生産。
さとうきびは島の経済を支える「基幹産業」と位置づけられている。

青々としたさとうきびは、農家の収穫後にさまざまな形で変化し、経済的な波及効果をもたらす。製糖工場ではミネラルたっぷりの黒糖に。黒糖は奄美の特産である黒糖焼酎の原料に。また、しぼり汁は機能性が高く島人の長寿を支える「キビ酢」にもなる。

これらに係わる従事者の数や経済効果、また健康長寿のもととなる食文化においてしめる役割も大きく、島にとってさとうきびの存在がいかに大きいのか、ということに思い至る。

改めて、サトウキビと奄美の関係性を見つめ直してみよう。
「さとうきびを巡る島の話」と題し、全4回でお届けする。
第1回目は、サトウキビ栽培について。青々とした葉が島風に揺れる風景は、島ならではの美しくさわやかな風景だ。

奄美市笠利町のさとうきび農家肥後 信幸(ひご のぶゆき)さん・春美(はるみ)さんご夫婦と、収穫作業経験者の長谷川 雅啓(はせがわ まさひろ)さんに話を伺った。

さとうきびのある島の風景

さとうきびは、イネ科サトウキビ属の植物で、茎の外側は竹のように硬く節があり、その内部の繊維状の部分に甘い液体が含まれている。これを圧搾した汁が砂糖の原料となる。

奄美大島の北部、奄美市の笠利町(かさりちょう)にはさとうきび畑が広がっている。奄美大島の地形は南部は山が多く、北部は比較的なだらかな平地が多い。そのため、島内のさとうきび畑のほとんどは北部の笠利町に集中している。

この辺り一帯も昔から平らだったわけではなく、もともと細かい起伏があり、森があり、川の近くには田んぼがあった。減反政策により丘は削られ、田んぼは埋められ、起伏を平らにするという大がかりな工事が行われてきて、今の風景がある。

冬になるとさとうきびの収穫が行われ、収穫したものから順にトラックで製糖工場に運ばれる。そのため、製糖工場付近の道にはところどころにトラックから落ちたさとうきびの欠片が転がっている。それを見ると「あぁ、この季節がやってきた」と実感する。

台風には強いが手のかかるさとうきびの栽培

島でのさとうきびの栽培は、苗の「春植え」「夏植え」「株出し」からスタートし、1年~1年半かけて行なわれる。

春植えの場合は3月~4月に苗を植え、冬には収穫できるが、夏植えは8~9月に植え、1年半後の冬の収穫となる。夏植えのほうが長い期間育てるため、太く大きく育ち、その分収穫量も多い。逆に春植えのほうは早く収穫できるので、収穫量は少なめでも回転は早い。

株出しという工程は、収穫後の根を畑に残しておき、そこから芽が出るのを待つというやり方。苗を植えるという作業が不要で楽だが、株出しを続けるとだんだん出芽数や収穫量が減るので、だいたい2~3年株出しをしたら、翌年は土を掘り返して新たに苗を植える。

「栽培で一番大変なのは、苗の植え付けね。」と肥後春美さん。

さとうきびは茎の節の部分から芽が出るので、苗用に残したさとうきびの茎を、節が入るように細かくカットする。そして畑を何度も耕して土をさらさらにし、そこに畝(うね:畑で作物を作るために細長く直線状に土を盛り上げた所のこと)を作って、カットした茎を置き、土を被せる。

作業量が非常に多いので、肥後家では島内に住む子どもや孫たちを呼び、家族総出で植付けを行なっている。

機械を使えば植付けは早く楽にできるのだが、手で丁寧に植付けたほうが発芽効率がよいので、機械で行うか手で行うかも迷いどころだ。

植付けたあとも、畑の状態を見ながら手入れを行う。
季節によっていろいろな種類の虫がつきやすく、また畑には雑草が次々と生えてくるため、適切な薬剤も欠かせない。

芽が出て大きくなってきたら、追肥をしたり、育ってきた根元に土を被せる培土(ばいど)という作業をする。この培土をきちんとしないと、台風が来たときに根元から倒れて傷んだり、ひどいと枯れてしまうこともあるため、欠かせない作業だ。

水やりは、スプリンクラーが大活躍するので、だいぶ楽になったという。

また、奄美大島では毎年いくつも台風が来る。比較的台風には強いとされるさとうきびでも、強風で根ごと掘り起こされて倒れたり、吹き付ける風の方向によってさとうきび同士が絡み合ってしまったりする。

台風で吹き付ける強い潮風も厄介で、葉や茎に塩がつき、芽や葉の伸びが悪くなったり枯れてしまったりする。だから台風後はできるだけ早く塩を落とさなくてはならず、スプリンクラーを駆使しての作業で大忙しだ。

このように手をかけて育てたさとうきびは、冬になると収穫の時期を迎える。
昔は手で1本1本を刈っていたが、何トンものさとうきびを刈るには大変な時間と体力が必要だ。
現在ではほとんどのさとうきびはハーベスター(収穫機)で収穫しているそうだ。

奄美でさとうきび栽培が広まったきっかけ

サトウキビが日本に入ってきたのは、今から400年ほど前。
大和村(やまとそん)出身の直 川智(すなお かわち)が、琉球(沖縄県)へ渡航する途中で台風に遭い、命からがらに流れ着いた先は中国福建省。

そこでサトウキビの栽培と砂糖の製造法を学び、日本に帰国するときにさとうきびの苗をこっそり持ち帰った。当時さとうきびを持ち出すのは厳しく禁じられていたことから、さとうきびの価値の高さが伺える。

それを奄美で育て黒糖を製造したのが、日本におけるサトウキビの栽培と製糖の始まりと言われている。

さとうきび栽培が始まった数年後、奄美は薩摩藩の領土となった。その頃は島では、米、さつまいも、さとうきびを栽培していた。

薩摩藩を支えた奄美の黒糖

薩摩藩は奄美での米作りにも力を入れ税収確保に努めていたが、奄美の米は気候のせいか質が悪く利益が上がらなかった。
そこで、さとうきび作りが奄美の気候に合っていることに目を付け、米の代わりにさとうきびでの年貢を納めるようにさせた。

その後、元禄時代に入り薩摩藩の財政は悪化した。砂糖を琉球経由で清国に売り資金源にしていた薩摩藩は、財政の立て直しのため、奄美での砂糖の生産をますます厳しく管理するようになった。

米や野菜を作ることも許されず食べるものにも困る状況で、島民はさとうきび栽培の過酷な労働を強いられ、厳しく年貢として取り立てられた。それは「黒糖地獄」といわれるほどの過酷さだった。

東京理科大教授であった奄美二世の大江修造(おおえ・しゅうぞう)博士によると、薩摩藩の財政収入の5割以上は奄美の砂糖を独占販売して得た収入だったそうだ。奄美の砂糖のおかげで、薩摩藩は軍事力を増強し江戸幕府を倒すことができた、という博士の説も納得できる。

明治時代に入って鎖国政策が解かれると、海外から安い砂糖が輸入されるようになり、さとうきび農家は苦しい状況にさらされた。

しかし、太平洋戦争中および戦後には砂糖の輸入が制限され、国内の砂糖は非常に貴重なものとなった。それをきっかけに国内の砂糖生産が注目されるようになった。

ハーベスターはさとうきび栽培延命の救世主

終戦から約8年後の1953年に、奄美群島が米軍による統治から日本復帰をすると、奄美群島では大きな製糖工場が建設され、さとうきびの生産は大きく発展した。
しかし、収穫作業の過酷さや高齢化などにより、次第に生産をやめる農家が増えてきた。そんな時、収穫用の機械「ハーベスター」が登場して、見違えるほど収穫が楽になり、さとうきび栽培への離農が止まってきたという。

かつて普通に見られた手刈での収穫風景。※奄美博物館 展示模型

写真提供:長谷川雅啓さん

収穫は、重労働の手狩りによる作業からハーベスターを所有する専門業者や組合が請け負う作業へと変わっていった。

このハーベスターによる収穫の仕事は、体力に自信がある人に人気の12月~3月の期間限定アルバイトにもなっている。

写真提供:長谷川雅啓さん

収穫は、ハーベスターのオペレーターと補助員が1,2人のチームで行なう。

さとうきびは1年で高さ2~3mほどまで成長するが、ハーベスターは、畑を走行しながらその根元をカットすると、機械の中でそれが15cmぐらいに細かくカットされ、ハーベスターの後ろに取り付けた網の袋に自動的に入っていく。
時折、ハブもさとうきびと一緒に収穫され、袋に入ってしまうそうだ。

写真提供:長谷川雅啓さん

畑によって、さとうきびの太さや生えている密度、倒れ方や茎と茎の絡まり具合、土の固さなどが全然違うので、細かく対応しながら収穫していく。

「翌年に株出しをする畑の収穫は、特に気を遣いますね。」と長谷川雅啓さん。ハーベスターが根を踏みつぶしてしまうと芽が出なくなるのだ。

補助員はハーベスターの後ろについて歩き、刈り残したものをカットしたり、落ちたものを拾ったりと、補助的な役割をする。

遠目にはどこも似たように見えるさとうきび畑だが、収穫チームによると、日当りや土壌によっても違うが、農家によってさとうきびの作り方や生え方などが全然違うことを実感するそうだ。

「同じような環境条件である隣同士の畑でも、全然違うんですよ。」という長谷川雅啓さんの話が面白い。

収穫の仕事の休憩時間には「これは育てる人の性格によるのではないか?」という話で盛り上がったりすることも。温厚な人の畑は、生え方、伸び方、畑の作り方が素直なので、畑に入ると、その栽培主の性格が想像できるそうだ。
ペットは飼い主に似るとよく言われるが、畑も農家に似るのだろうか?

年に一度の収穫でその年の収入が決まる

刈り取ったあとは、袋に入れられたさとうきびを運送業者が製糖工場に運んでいく。
買取価格はさとうきびの重量と糖度によって決まる。
ここで1年間の収入が決まるので、農家にとってはドキドキする時期だ。

「この買取まで1年間収入がないから、それまでにかかる費用は自前で賄わなくてはならなくて大変なんだよ。」と話す肥後信幸さんもこの時期は少し嬉しそうだ。

収穫が終わると、肥後家ではまた畑に家族一同が集まり、苗用に残したさとうきびをみんなで植付けサイズにカットし、畑を耕して、植付けが始まる。

搾取の対象となったさとうきびではあるが、今では台風常襲地奄美大島の経済を支える作物となっている。

今回は、奄美大島におけるさとうきび栽培の歴史と、栽培の流れを取材した。続いて次回は、そのさとうきびの汁を使って作る名産品「黒糖」づくりについて、小さな黒糖工房でお話を聞く。どうぞお楽しみに。

勝 朝子

東京出身。2012年から奄美大島と神奈川県湘南エリアとの二拠点居住。 島ではWebライター、Webサイト制作&運営、IT関連サポート、本場奄美大島紬のポケットチーフ「Fixpon奄美」を企画運営しています。 趣味はサーフィン、シュノーケリング、旅行、おいしいものを楽しむこと。奄美黒糖焼酎語り部第88号。 奄美の自然・文化・人が大好きで、島の隅々まで探索中です。

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