しまのま
生活と文化とわたし

円形の屋久島は中央に2,000m級の山がどっしりと立ち並んでおり、その周りの僅かな平地に人々が暮らしています。山と海に囲まれた里の暮らしには、自然の恵みがたっぷり。
島の縁に点在している集落の中でも、一湊(いっそう)集落は最盛期の人口が3,000人を超え、当時は島最大の港を有する漁師町でした。今回はそんな一湊で生まれ育った、とある人物に集落を案内してもらうことに。

本日のナビゲーター、馬場さん

一湊生まれ、一湊育ちの馬場貴海賀さん。Uターン後、おばあちゃんの家を使った「屋久島ギャザーハウス&カフェ キヨコンネガイ」、昭和3年に建てられた元旅館を改装した宿「屋久杉楼 七福」を運営する。書道アーティストとしても活躍中。

「キヨコンネガイ」の名前に込めた思い

「めっちゃ親戚が多くて、父方も母方も一湊出身だから、家族がいっぱいな感じ。みんなに見守られながら育ってきて、何かお祝い事があれば、よくみんなで集まっていた。両親が共働きだったから、よくおばあちゃん家に遊びに行ってた」と笑顔で幼少期の思い出を話し始めた。

一湊川に面する馬場さんのおばあちゃんの家・キヨコンネガイ

おばあちゃんといえば、夏に作ってくれるそうめんがめっちゃ好きだった。サバ節の出汁が効いた甘いそうめんつゆに、ほぐしたサバ節が入ってる。あとは魚の塩煮。サバかトビウオを濃い目の塩で茹でて、酢醤油で食べる。びんた(鹿児島の方言で頭のこと)も一緒に」
サバ節とはサバを燻して作る、屋久島を代表する特産品の一つ。

キヨコンネガイのサバ節パスタ。ほとんどのメニューにサバ節が使われている

店内で一際目を引く、立派な2本の杉の柱。「じいちゃんとばあちゃんが畑に杉をたくさん植えて、その中の2つを夫婦杉としてこの家に持ってきた」という。柱には夫婦それぞれが杉の木に託した思いが綴られている。

馬場さんのおじいちゃんとおばあちゃんが育てた夫婦杉

おじいちゃんの杉柱(一部抜粋)

我家の大黒柱 夫婦杉御代の世代に司を織って 豊かで平和な家系を造りましょう
皆で植え付け育てた樹齢三十数年の杉の木です

おばあちゃんの杉柱(一部抜粋)

天気のよい日漁船でサバ釣り シケの日は山に畑を耕す毎日で
気がついて見ると五十枚あまり 大小の畑となっていました
主人が安房より屋久杉の苗木一万木購入し 主人と地ノ山畑に仮植えし
毎日のように五十本づつ背負って植え付け
杉の木が大きくなるようにと二十kgの肥料を背負って 一本一本の木に肥料を撒き歩きました
植え付けてから三十三年 子どものように手塩をかけ育て来たこの杉の木が
高橋家(馬場さんの祖母の姓)のシンボルとなり 子どもたちがこれからもこの杉の木のように逞しく育ち
高橋家が末永く繁栄するよう 心からお祈り致します

目を閉じると、当時の情景が浮かぶような文章です。また2人の一家を思う気持ちがとても伝わってきました。

キヨコンネガイの窓には近所の子どもたちが描いた絵や文字がいっぱい

「ばあちゃんの葬式で『おばあちゃんにお世話になった』っていう人がいっぱい来て。私は小さい時から近所の人たちからとても良くしてもらってて、一湊の人が優しいんだって思ってたけど、ばあちゃんがみんなに優しかったから、それが巡り巡って私に来たんだなというのを感じて。だからそれをまた巡らせたいっていう思いを、ばあちゃんが亡くなった時にすごい感じた。お店の名前をキヨコンネガイにしたのもそう」

キヨコンネガイとは一湊の方言でキヨコ姉さん(=馬場さんのおばあちゃん)の家という意味。近所の人がごはんを食べながらおしゃべりしたり、地元の子どもたちがふらりと遊びに来たり、そんな一湊の日常の風景に出会える場所です。

 

キヨコンネガイを出てすぐ目の前、一湊川を挟んで向かい側に建つ「屋久杉楼 七福」

七福は、1928(昭和3)年に建てられた旅館を改装した宿。当時の漁師町の賑わいを思い起こさせるかのように、屋久杉材が贅沢に使われています。高い技術を要する屋久杉の折上格(おりあげごう)天井、貴重な四方柾の通し柱は一見の価値あり。建物の歪みやシロアリの跡は歴史を感じられるものとして、あえてそのまま残しているそうです。

「一湊の歴史を知りたいなら」と、次に馬場さんが案内してくれたのは一湊公民館。区長の小倉證さんが集めたという昔の一湊の写真が飾られた一室があります。

一湊区長の小倉證さん。一湊で生まれ育ち、しばらく島を離れた後、両親の介護のために40代でUターン

「写真を見ると、ご高齢の方々のスイッチが入るわけです。写真を見てもらうと『あ!これ誰や、誰や』って、思い出がパッと蘇ってくる。ご高齢でも、昔の事は鮮明に覚えている人が多い。亡くなった方の名前も含めて、誰かが思い出した時にすかさず付箋に書いて、写真に貼る」

「一湊は戦争の時に空襲も受けてるし、明治、大正、昭和と火事があって、洪水もあった。だから資料が全然残ってないんです。若い世代が知らないことを知ってる人たちも、だんだん少なくなってきてるから、今のうちに伝えられることを残しておきたい」と写真を集め始めた理由を話してくれました。

集落の年配者から集めたという写真には付箋がいっぱい

「とにかく漁業で繁栄して、人口も島で一番多かったし、この時代は漁師になれば食っていけないことはまずなかった。昔のトビウオ漁は、トビウオが産卵のために磯に寄ってきたところを追い込んで獲っていました。卵で海面が真っ白くなるほど、大量のトビウオがいた。トビウオ漁が始まるとサイレンが鳴って、子どもたちも学校の授業中だろうが手伝いに行ってた。それが良いお小遣いになったんです」

大漁旗を縫い合わせた一湊公民館のステージの緞帳(どんちょう)

 

一湊が漁業で栄えた頃の話なら、近くに詳しい方がいるという事で、一湊公民館から徒歩約1分の「かねなか商店」へ足を向けた。一湊で生まれ育った店主・中島一孝さんはご両親とともに食料品などの販売や、すり身や塩サバなどの水産加工品の製造・販売を行っている。

「かねなか商店」を営む中島さん。高校卒業後に島を離れ、両親の店を継ぐためにUターン

サバ漁で栄えた大漁時代

「一湊のサバ釣り船には1隻につき10〜15人の乗り子がいて、1人500〜600匹、1つの船で何千匹も釣って、船の名前の入った青いキャリーが市場いっぱいに並んでた。このサバがサバ節の原料になる。だいたい夜中に出て行って、一晩中釣りをして、夜が明ける頃に帰ってきて、朝水揚げをして、家に帰り晩酌をして寝る、というのが漁師の日常」

遠い集落からわざわざ買いに来るファンもいる、肉厚の塩サバ

「首折れサバって元々は、漁師が夜明けの帰る寸前に釣れたサバの首を折って血抜きをして、水揚げせずに晩酌のつまみ用に何匹か持って帰ってたのが始まり。父ちゃんは市場の入札にも行ってたから、よくもらって帰ってきたりして、小学校の時から朝ごはんに首折れサバの刺身があるのが普通で。『あよー。またか』って言いながら食べてた。でも高校卒業して大阪に出ると、サバの刺身ってまず売ってなくて、食べたいってよく思ってた。毎朝『あよー』って言ってたのに」

首折れサバ(画像提供:馬場貴海賀さん)

「昔は小さなサバ節工場が町の中に点在していて、一晩中火を焚いていた。サバ漁が始まったとされる明治18年頃に、サバ節工場から出火して一湊の町を半分以上焼失してしまうほどの火事があった時、消防団の男性がみんなサバ釣りに出ていたので、火を消す人がいなくて燃え広がった。そのことを忘れないようにと始まったのが浦祭り。それと別で春にお弁当を持って浜に行く行事”浜でばい”があった。うちの母ちゃんも必ず同級生と弁当持って浜に行ってた。その頃にはエビス様のお祭りがあって、浜から餅投げの儀式をする。その2つを一緒にしたのが、今の浜祭り。航海安全や豊漁を祈願する」

一湊に一軒だけ残る和菓子店・平海製菓

「昔、トビウオやサバを大漁した時は、いま港に留まってる位の大きさの船から手こぎのテンマ船に、誰がどれだけ釣ったとか数えながら積み替えてたそうです。サバ節工場がある河口まで運んで荷揚げの作業をする時に、お腹が減るのでモッタ(木製の大きなおぼんのような入れ物)いっぱいにひらみ(平海製菓)の生菓子を入れて、お神酒と一緒に差し入れしてたとか」

平海製菓が創業当時(昭和37年頃)から使っているというモッタ

「あよー」とは「あらら〜」などという時に使う屋久島の方言。首折れサバを食べ飽きるほど食べていたとは羨ましい話ですね。それだけ魚が豊富で、漁師さんや働き手も大勢いて、町全体が活気に溢れていたのだろうなと想像できました。一湊と言えば、外せないのがサバ節の存在。かねなか商店では「丸勝水産」のサバ節を取り扱っています。工場までは徒歩約8分ということで、実際に訪れてサバ節のお話しを聞くことに。

時代の盛衰を乗り越え、伝統を守り続ける屋久サバ

丸勝水産の眞邉勝志さん(左)と弟の眞邉勝信さん(右)

「弟は何も専務で、私が代表取り締まられ役。そんなダジャレばっかり言って。うちは元々家族でやってるとこです。家族親戚、みんな一同で。もともと生まれ育ちも一湊です。名前まで丸勝の”勝”を入れられて。子どものときは毎日お手伝い。それが嫌でした。友達は遊んでるのに、お手伝いをしないとご飯を食べさせてもらえない。虐待ですね、あはは。一度は都会に出て、全然畑違いのことをやってました。またここに戻ってきて、今跡を継いでいます」

屋久島が日本有数のカツオ節の産地であったことを示す「鰹節番付表」

「サバ節の歴史からまずお話すると、カツオ節で始まっています。これが「鰹節番付表」という歴史を紐解く中ではとても重要な文献です。江戸末期、横綱というランクは無く、大関が最高位だった。それをカツオ節に置き換えたものです。江戸時代まで遡って、元々はカツオ漁、次がトビウオ漁、そしてサバ漁と移り変わってきました。島の西側、西部林道地区は魚道や黒潮の流域があって、以前は栗生や永田地区にも大きなカツオ節工場があったそうです。明治38年ぐらいにサバ漁に切り替わる。理由は諸説ありますが、サバ漁が一湊を中心に栄えてきます」

サバ節作りの様子(画像提供:かねなか商店)

「私で7代目になります。カツオ節でちゃんと辿ると、200年ほど経ちます。文化5年、太郎兵衛さんというお爺さんがご先祖様です。昔ここは港町、商業港、漁港として、とにかく屋久島で一番栄えました。昭和48年から50年代にかけて、サバ節屋さんが皆、家業から企業に法人化していく。その5年後、10年後に水揚げがだんだん無くなっていく。 若い人たちは関東関西に仕事を求めて出ていく。全盛期は昭和の60年代頃だったかもね。平成に入ってからはほとんど皆さん廃業していく。そういう歴史文化がある」

屋久島の自然環境も、人々の暮らしや経済状況も大きく変化してきた約200年。どんな思いでサバ節作りを続けてきたのか、ますます興味が沸きます。

看板は以前建物の上に設置されていたが、冬場の季節風が非常に強く何度も吹き飛ばされたため、現在の位置に置かれるようになったという

「全国各地にサバ節の産地はあるんだけど、その中で屋久島のものが優れている点は、歴史文化と、サバ節作りに適したこの高温多湿な気候、そしてこの軟水。作り方はいたってシンプルです。ワラ切り包丁で頭を落として、背中に包丁で浅くもなく深くもなく、サッと線を入れる。これはなかなか熟練で、この切り込みによって仕上がりが変わります。内臓を出して、そしてカワゴロモ(※1)がいるくらいの自然の恩恵の水で洗って、1時間ボイルします」
※1・・・渓流に生えるカワゴケソウ科の植物。ヤクシマカワゴロモは一湊だけに生育する固有種で、絶滅危惧種に指定される。

竹の蒸籠を作る職人も今は僅かしかいないという

「法人化する時に大量生産を見込んだ工場をモデルに建て替えた、当時にすれば画期的な建物。以前はこの工場の3分の1位の広さで作業をこなしていました。これは昔からの竹の蒸籠です。一時はステンレス製も使ってましたけど、また昔のを出してやってます。オートメーション化した設備もある中で、こういう昔の道具や窯をまだ使うっていうのは、便利ではないし管理も大変だけど、仕上がりに違いが出るし、少しでもこういう作り方をしてたっていうのを伝えたいし、分かってもらいたい。全国どこも機械に変わってきてるから、こういう時流に逆らった物は日本に少ししかありません」

昭和48年からずっと使い続けているという窯

「ボイルした身を竹の蒸籠に並べ、棚に敷き詰め、島の広葉樹の薪をふんだんに使い、燻します。その日の風向きを見て、通風孔を開け閉めして空気を入れる。昔ながらのこういう窯でやってるとこは今もう無いです。火事の心配や労力を考えて、ほとんどのところが電気式に変えていきました。一昼夜火を入れて、焼け具合を三つぐらいに分けて、並べ替えて、また火をじわじわと。それから本枯れ節は高温多湿を利用してカビを付け、発酵させる。生のサバの6分の1から8分の1ほどに収縮します。これが約半年から1年かかります」

半年から1年かけて作られるというサバ節の本枯れ節

「その過程で薪から出た灰も、あく巻きのあく取りにしたり、染め物にしたり、畑の虫除けに使ったり。頭や骨も捨てずに、ポンカンやタンカン(※2)の肥料にする。海のものを森に返してあげる。この煙でさえもまた、雲になって、雲が雨を降らして、その雨が山をつたって、養分やプランクトンが川に行って、それが大海原に出て、サバやらトビウオが食べて、それを漁師さんが獲って、加工して、またこうやって肥料になって。屋久島の自然を利用して、ぐるっと循環する。今だからじゃなくて、昔から普通にやっていること」
※2・・・ポンカン、タンカンはオレンジの一種。屋久島の特産品

副産物のサバの骨も、肥料として無駄なく活用する

屋久島が漁業でいかに栄えたか、そして時代とともにそれが変化していったか。人々の暮らしの中で自然がもっと身近だった頃、自然への感謝や畏敬の念は、今より当たり前にあったのかもしれません。

「サバ節はね、脇役だけど、縄文杉と一緒だと思ってます。屋久島の”屋久サバ”っていう名前が付くくらいのパワーがある商品だから。あとは、こうやって語り継いでいくところがサバ節の魅力なのかな。魅力というか、使命感というか。大変ですよ、自然との戦いもあるし。でも共存共栄でね。我々はその恩恵で水も使わせてもらってる。安定させるのは自然の力だと難しいけど、自然と共存共栄もしないと、続けられないです」

洞窟の中にある矢筈岳神社。祠の前には大漁祈願の旗が祀られている

「一湊は良くも悪くもお節介もあるけれども、家族みたいな。ここは漁業で栄えた町だから、働くっていうより皆手伝い。畑にしても何にしても、皆で協働、結(ゆい)の精神。そういうのが特に強いんじゃないかな。それが厄介な時もあるけど。そんな町です」

一湊の港を一望できる高台に祀られるエビス様

今も歴史や文化、伝統を大切に暮らす、個性豊かな一湊の人々。さまざまなエピソードに触れて感じた、島の盛衰。時代の変遷を感じた人々だからこその、切なく重みのある言葉。ぜひ直接足を運んで、出会って、味わってみてください。

 

屋久島ギャザーハウス&カフェ キヨコンネガイ
所在地:鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊13-1
TEL:0997-44-2176
Instagram @kiyokonnegai

屋久杉楼 七福
所在地:鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊2287-4
HP:https://www.yakusugiroushichifuku.com/
TEL:090-7928-7649
Instagram @yakusugirou_shichifuku

かねなか商店
所在地:鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊198
TEL:0997-44-2507

平海製菓
所在地:鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊268-1
TEL:0997-44-2058

丸勝水産
所在地:鹿児島県熊毛郡屋久島町一湊166-3
TEL:0997-44-2311

中島遼

北海道出身。東京在住10年を経て2016年屋久島に移住。漁師の暮らし体験宿ふくの木・遊漁船さかなのもりを運営。屋久島ブルーツーリズム推進協議会を立ち上げ、うお泊やくしまのプロジェクトマネージャーを担う。屋久島経済新聞ライター。 漁師の暮らし体験宿ふくの木 https://www.yakushima-fukunoki.com/ うお泊やくしま https://www.uohaku-yakushima.org/

facebookへのリンク

執筆記事一覧