しまのま
生活と文化とわたし

私が「石」が気になる理由

石が気になります。

とくに長年そこにあり、1ミリと動いていない石がいい。むしろ、動いちゃったらダメなんです。そもそも石に惹かれたきっかけは、2年前に大阪城の石垣を取材したことでした。

関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康。その後、豊臣秀吉の城を埋め立てる格好で築かれたものが現在の大阪城(天守閣は昭和6年に復興)で、その石垣は実は国内でも類を見ないほど巨石が揃い踏んでおります。最大のものはなんと54.93平方メートル(表面露出面積)!

大きいことには理由があります。徳川家は、豊臣勢につき「負け組」の大名たちに石垣の運搬を命令。いわゆる天下普請というやつで、立場の弱い大名は従うほかなく、同時に良い働きを見せようと、こぞって主に瀬戸内海の良質な巨石を遠路はるばる大阪へと運びました。

つまり石垣には、藩を取り潰しされる恐怖とか、この機会に取り立ててもらおうという狙いとか、ほかの藩に負けないぞという負けん気とか、さまざまな情念がこもっていた訳です。

そう思うと、一見すると無機質な石が、途端に味わい深く感じませんか?

前置きが長くなりましたが、ここから奄美群島・沖永良部(おきのえらぶ)島のお話です。

沖永良部(おきのえらぶ)島の石たち

それから私は大きな石を見ると気になる訳ですが、ここ沖永良部島に住むようになってからも、たくさんのロマンあふれる石たちと出会えました。それはときにはるか昔の島人の息遣いや歴史の面影を感じさせ、もはやタイムトラベル同然だと言っても過言ではありません。

いや、過言か。いやいや、私にとってはマジほんとそうなんですけど。

そんな謂れを持つ石は「神石(かみいし)」、方言ではハミイシと呼ばれます。島の至るところにあるのですが、なにしろ石ですので意識して見なければ見落としてしまいがちです。それでいてたくさんあるものなので、みなさんに今回紹介する石に目星をつけたい!

そこでまずは、沖永良部島の歴史民俗研究の第一人者…

えらぶ郷土研究会会長、先田光演(みつのぶ)先生にお話をうかがいました。

これまでに多数の著書を出されている、沖永良部島の歴史・民俗学を調べれば必ずと言ってよいほど行き着く方です。大学生の頃から半世紀以上に渡り研究されており、当時のきっかけを伺うと「お金がなくて暇だったから」とのこと。一体何が動機になるか分かりません。

神石は過去に研究済み。神石リストというチート(無敵)アイテムまで飛び出しました。

先田先生「分かっている限りでも神石は和泊町だけで42あり(※沖永良部島は和泊町と知名町の2町構成)、神社の御神体として信仰の対象になっているものも多いです。卑弥呼の邪馬台国は鏡が対象でしたが、一般的には石で、原始の時代から存在していた訳ですね。」

神社は国家神道にまつわるものが多い印象ですが、沖永良部島はもともと精霊信仰やシャーマニズムが根付いていた琉球文化圏。現代に継がれる島の神社も、それぞれで性質がまるで異なります。この記事では、そんな民間信仰の御神体とされているものや、そうではないけど地域で大切に語り継がれてきたものを織り交ぜながら、下記の石を紹介してまいります。

1.大漁のお告げ!岬大明神のまくら石
2.力持ちはモテ男子!住吉暗川の力石
3.戦史を語る刀傷?タシキマタの割れた石
4.伝説が実在した証…下世之主神社のかまど石
5.島のスーパーマン!わんたろうの足跡が残る石

大漁のお告げ!岬大明神のまくら石

和泊町の字(あざ。集落のこと)、国頭(くにがみ)にある岬大明神は、名前の通り国頭岬そばにある神社。神殿らしき建物はなく、一見すると広い空き地の入口と奥に鳥居が据えられているだけです。内地(本土)の神社とまるで違う簡素な見た目に驚くことでしょう。

これこそが先田先生の話にあった民俗信仰の御神体を祀る神社です。奥にある、成人男性ならがんばればなんとか片手で持てそうな石がその御神体。逸話がとてもユニークなのです。

明治の頃、島人が海で光り輝く石を発見。それを枕にしてアダンの木の下で潮待ちに昼寝していたところ、夢の中で現れた神が大漁を予言。半信半疑ながら漁に出ると実際に大漁ウハウハサンキューゴッドという話。その石を祀ってから、国頭字は豊作がつづいたそうです。

神社のルーツが「漁師の昼寝」と考えるとおもしろいですが、目に見える石がなければただのラッキーな話で終わっていた気もします。それにしても「大漁の夢を見た」というのが牧歌的。英雄譚でもなければ派手さもない、当時の暮らしが伝わる個人的に好きな逸話です。

力持ちはモテ男子!住吉暗川の力石

沖永良部島では昭和30年代に上下水道が整備されるまで、洞窟の奥底に流れる川まで上り下りして生活用水を汲み上げていました。サンゴ礁が隆起した島であるゆえに、地中はもぐらが穴を掘ったような構造になっており、地上を流れる川は一部の集落に限られていたのです。そこは真っ暗闇だったことから暗川(くらごう)と呼ばれ、とくに現在の知名町の住吉字にある暗川は大規模なものでした。

当時、水汲みは女性の仕事とされ、集落の社交場としても機能していました。井戸端会議という言葉がありますが、それが島では暗川会議だったという訳です。そんな女性たちを目当てに下心を持った男たちが集まって、やっていたこととは…石をふんがふんが持ち上げる。

何やってんの?と思うことなかれ。これでも立派なセクシーアピールなんです。当時の生活(仕事)は身体が動けてなんぼの世界。つまり力持ちはステータスのひとつで、今でも住吉暗川入口そばに置かれてある石は、数多くのモテたい男子に持ち上げられてきたそうです。

それでは、モテ男目指して…ふんがっ!

…石の重さは15kg~20kgというところで、デスクワーク中心の30代後半男性(私)でも持ち上げられなくはありません。集落に伝わる話では、若者たちが何回持ち上げられるか力比べをしたあとで、暗川で汗を流し帰る光景が昭和30年代頃まで見られたそうです。これ、上下水道の整備の時期とぴったり一致するあたり、やはり女性目当てだったと思われます。

まるで女子がいるときだけ体育をがんばる男子のようです。

ちなみに力石と伝えられるものは島の至るところにあり、成人男性一人では到底持ち上げられるとは思えないサイズもあります。そもそも日本全国各地にもあるので、いかに力持ちであることがモテにつながったり、ときに英雄視されることだったかが伝わってくる話です。

逆に、英雄的人物を語り継ぐため結びつけられた石(と私が勝手に思う)もあります。

戦史を語る刀傷?タシキマタの割れた石

和泊町の後蘭(ごらん)字にある三叉路は古くからタシキマタと呼ばれ、南側には縦に割れたような大岩があります。これは島の各地を統治していたアジ(豪族)、後蘭孫八(ごらんまごはち)と西目国内兵衛佐(にしみくにうちべーさ)が争ったときの刀傷という逸話が。

二人は、世之主(16世紀に島全体を統治していた王)に召集され王の城へ。真っ先に到着したかった後蘭氏が「西目氏の屋敷が火事だ!」と嘘を吹き、出遅れて怒った西目氏が「ぶっころ!」と大刀を振って割れた石…というものです(セリフは今考えた創作です)。

こちらはかなりファンタジー寄りですね。でも、数百年に渡り語り継がれる話がまったくのゼロから生まれるとは思えません。これは完全に私の想像ですが、後蘭氏と西目氏が争ったことは事実だったのではないかなと。その戦いを語り継ぐ上で、昔からそこに実在し、そして今後もあるであろう石が、語り部として逸話の中に組み込まれたのではと思っています。

ちなみに石のそばには大型犬注意の看板があります。しばらくいると、実際にびっくりするほどの大型ワンちゃんが飛び出してきたので、石は県道から眺めるだけに留めてください。

伝説が実在した証…下世之主神社のかまど石

そんな二人の豪族が仕えた(と伝えられている)王様が、先にも書いた世之主。沖縄本島が南・中・北山王国に別れていた時代、沖永良部島と与論島は北山王国の統治下にありました。それぞれ国王の次男と三男が直接統治しており、どちらも呼称は世之主。世界の主ということだから、当時の島(=島人にとっての世界)の王をそう呼んだのかもしれません。

沖永良部島の世之主は名前を真松千代(まちぢよ)と言い、彼はそれまで島で各集落を治めていた後蘭氏と西目氏、そして屋者真三郎(やじゃまさばる)氏と国頭弥太郎(くんじゃいやたろう)氏の四人の豪族を、「世之主四天王」としてまとめあげたと伝えられています。

そんな世之主は悲運な最期を迎えるのですが、そこは割愛。彼を祀る神社は島内に二箇所あり、世之主生誕の地の下城字に建てられた、下世之主神社の御神体こそが4つめの石です。

それは世之主が生まれたときに産湯を沸かした3つのかまど石。社の後ろにある小窓から覗くことができます(写真右奥)。地元地域の区長さんに確認したところ自由に見て構わないとのことですが、御神体ですからむやみに触れないようにしましょう(個人的意見です)。

さて、600年も前の人物と聞くと、もはやファンタジー世界の住人のように感じる世之主ですが、彼が生まれたときに使われた石を直で見てみると、「本当にいたんだろうな」と現実味が増してきます。

余談ですが、新潟の方で以前、縄文土器に触らせてもらったことがあります。これまで何度か博物館などで見てきたはずなのに、手の下のレリーフの凸凹を通して、「自分は縄文人が感じ取ったものと同じ触感を味わっている」と思うと鳥肌が立つほど感激したものでした。

島のスーパーマン!わんたろうの足跡が残る石

最後に紹介するものは、和という字の畑の中にデーン!と鎮座する石。というより岩です。

道から眺めるだけではその最大の特徴はまったく分かりません。私有地なので地主さんの許可を取った上で近づいてみると、ほぼ真上のところにくぼみが見えます。何の形に見えますか?「足跡!」と言える人はとんでもなく勘が良いかさてはすでに正解を知っていますな。

この足跡(のような穴)の主は、わんたろう(和太郎)という、背丈が6尺(約1.81m)近くあったという和字に伝わる大男です。ある日彼が狩りから帰ろうとするところ、自宅付近に異変を感じ、跳んで帰って着地したときにメリッ!と着いた足跡だと伝えられています。

これもファンタジーな話ですが、6尺という身長は意外と現実的で、そして実際に当時はかなりの大男だったことが想像できます。個人的な想像ですが、タシキマタの石における豪族間の争いと同じく、わんたろうの剛勇ぶりと、そしてもしかすると何かあり跳んで帰ったということも実際にあった出来事で、石を媒介として語り継がれたものなのかもしれません。

石は目に見えない島の宝を語りつづける

沖永良部島には、わんたろうのほかにも力強さとともに語り継がれる人物がいます。それだけ当時は力が人物を測る大きな尺度であり、割れた石、凹んだ石というのは、その剛勇ぶりを語る上で、ある意味では「話のつくりやすい」語り部だったのではないかと想像します。

島に限らず、石というものは御神体としてメジャーです。ほかには大木や山、また、海は海で、琉球・奄美には海底を神界と見立てたニライカナイ(ネリヤカナヤ)信仰があります。

何百年、ときには何千年とそこに変わることなく留まっている。形もさまざまで、なんだったら都合のよいように加工だってできてしまう。人が史実になるほどの大事件を後世に伝える上で、石というものは半永久的に役割を果たせる語り部とも言えるのかもしれません。

沖永良部島は、サンゴ礁に覆われた碧くて広い海や、200から300あるとされる洞窟が観光の目玉であり島の宝です。だけど、今回紹介した目には見えない逸話もまたここにしかない宝であり、そのふたつがお互いに島にいる時間を2倍3倍と濃密なものにすると思います。

次にいらしたときにどうですか?沖永良部島でタイムトラベル的石めぐり!

ふんがふんがと住吉暗川の力石を持ち上げる私。

ネルソン水嶋

1984年大阪出身、母の故郷は沖永良部島・国頭のえらぶ二世。2020年夏に移住、ライターやYouTuberとして島暮らしの様子を発信。「地域づくりと多文化共生」というテーマでTシャツ制作など事業展開中、詳細は本人まで。

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