しまのま
生活と文化とわたし

奄美大島南部、瀬戸内町にある油井(ゆい)集落。山と海に囲まれ、豊かな川が流れるこの集落(シマ)には、昭和58年に国の重要無形民俗文化財に指定された「豊年祭」が今も受け継がれています。
毎年、旧暦8月15日に行われる豊年祭。紙面と呼ばれる仮面をつけ、稲作の様子を表したユニークな演目を披露します。しかし、現在の油井を見渡しても、水田の風景はどこにもありません。
「豊年」とは、文字通り作物が豊かに実ることを意味します。日常から「稲作」が消え去った今、油井の人々はどんな想いで豊年祭を続けているのか。過去に油井集落の区長を務めた内田百一さん(82歳)にその想いを聞きました。

十分ではないからこそ、収穫の喜びは大きかった


「子どもの頃はね、シマのほとんどが田んぼだったんですよ」
油井集落の背後には瀬戸内町でもっとも高い油井岳がそびえています。山から豊かな川が流れ、海へ流れます。大島海峡のちょうど真ん中あたりに位置するこの海は、風がないときには時が止まったように凪いで、とても美しい景色が広がります。
当時は今のような道路はなく、ただの浜でした。ものを運ぶのも、移動するのも海から。よく父親が釣ってきた魚を食べていたと内田さんは話します。海の恵みはあれど、当時は食べ物が十分になく、常にお腹が空いていました。飢えと隣り合わせでした。お米は一年に二回(二期作)作っていましたが、それでも一年分をまかなえるほどの収穫はありません。ドラム缶に入れて保存していましたが、正月のころにはなくなっていました。
米がなくなれば芋を蒸して食べ、そてつがゆやシイの実で飢えを凌ぐ日々。


だからこそ、苦しい労働の果てに収穫を迎えた時の喜びはひとしおだったと言います。
「当時のお米は本当においしかった。あの時に、川で獲れたかわうなぎを蒲焼きにして、新米の上にのせて食べた『うなぎ飯』の味は、なんとも言えない格別なものでした」

命を繋ぐための「切実な祈り」だった豊年祭

そんな時代に行われていた豊年祭は、今とは比べものにならないほど切実な感謝と祈りの場でした。
「米ができた喜び、そして『また来年も無事に豊作でありますように、命を繋げますように』と、文字通り願いを込めて豊年祭をやっていました」


お腹を空かせた子どもたちにとって、豊年祭は一年のうちで最も贅沢ができる、夢のような日でもありました。相撲をとれば、「力飯」という新米でにぎった握り飯がもらえ、普段は口にできないごちそう――魚を甘辛く煮たもの、香ばしいピーナッツが入った天ぷら、月桃の葉の香りが広がる「かしゃ餅」――がお腹いっぱい食べられたのです。


当時の豊年祭の演目は、大人が子どもに練習を見せることは決してありませんでした。公民館に籠もって秘密裏に練習され、子どもたちは当日、舞台に立った踊り手を見て「あ、あれは誰々のおじさんだ!」と初めて知る。今でも「玉露カナ」という演目ではシシに扮した人が登場しますが、入場するときまでは人に気づかれないよう隠れています。突然現れたシシに子どもたちは驚き、歓声が!当時の大人たちもきっと、子どもたちを楽しませたい気持ちで練習していたのでしょう。
演目のコミカルな動きの一つひとつも、スマートな男ではなく、どこか泥臭く、逞しい体つきの男たちが実際の農作業の動作に基づいて演じていたので、リアリティがありました。

利便性と引き換えに消えていった水田

しかし、時代は大きく変わります。子どもを学校に行かせるため、現金収入を求めて、田んぼを捨てて本土へ出稼ぎに行く家族が相次ぎ、シマの人口はみるみる減っていきました。内田さんもまた、15歳だった1959年にシマを離れ東京に行きました。


内田さんが平成3(1991)年に油井集落に戻ってきたとき、シマの景色は一変していました。トンネルが掘られ、その土砂で浜が埋め立てられ、立派な国道が開通していたのです。それまで、隣の須佐礼(すされ)集落から板つけ舟で荷物を運んでいた時代から見れば、劇的な変化でした。


「道路ができたときは本当に嬉しかった。時代が変わっていくこと、便利になっていくことが、とにかく嬉しかったんです」
便利さと引き換えに、重労働だった稲作はシマから姿を消しました。豊年祭の演目で使うワラが確保できず行事の存続が危ぶまれるほど。わざわざ北部の龍郷町秋名まで出向いてワラを購入していましたが、経費がかさみ確保が厳しい年もありました。

シマを離れてもつないできた先人たちの想い


日常の「お米作り」が消滅したにもかかわらず、なぜ油井の豊年祭は途絶えなかったのでしょうか。それは、ふるさとのつながりを忘れないよう尽力してきた先人たちのバトンのおかげです。
戦後、シマを離れ、職を求めて東京に移り住んだ先人たち。離れても三味線やシマ唄で親睦を深めていました。そのまとまりから「関東油井会」が結成され、定期的に豊年祭の演目を踊っていました。
披露する場は次第に広がり、国立劇場やNHKホールで披露したこともありました。遠く離れていても、唄や踊りでふるさとへ想いを馳せる。豊年祭はそうやって油井集落の人に受け継がれてきました。
内田さんは、豊年祭の舞台に欠かせない、昔からシマに咲き続けているサンダンカの花の話をしてくれました。サンダンカは力飯に飾る大切な花です。


「サンダンカはね、花が一つひとつバラバラではなく、ぎゅっと集中して咲くんです。だから昔から、これには『団結』という意味があると言われてきました。
もし、この豊年祭をやめてしまったら、シマの『連帯性』がなくなってしまう。だからこそ、私たちは豊年祭を続けていきたいんです」

次の世代へ手渡す「目に見えない実り」


かつての油井の豊年祭は、胃袋を満たす「お米の豊作」を祝うものでした。 しかし、お米を作らなくなった現代において、この祭りが祝っているのは、目に見える作物の量ではありません。
それは、サンダンカの花のように、シマの人々がぎゅっと一つにまとまること。 今年もまた、みんなで顔を合わせ、生きてこられたこと。 そして、この小さなシマを愛する心を、次の世代へと繋いでいくこと。
一人ひとりが集まって力を合わせ、「油井」という大輪を咲かせようと願いを込めて、これからも油井の豊年祭は続いていくでしょう。

田中良洋

兵庫県出身。東京で6年間働くが、都会に疲れて2017年1月に奄美大島に移住。島ではWebライター、映像制作、ドローン撮影、マリンショップのスタッフ、予備校スタッフなど様々な仕事をしている。島生活のことを綴ったブログやSNS「離島ぐらし」を運営中。

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