八重山諸島に位置する竹富島(たけとみじま)は、周囲約9キロ、人口約340人と小さな島だが、赤瓦屋根の民家と敷地を囲む琉球石灰岩の石垣が織りなす町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定され、多くの観光客を惹きつけ魅了している。そんな竹富島で、島民によりうたい継がれている古謡(こよう)を次世代に繋げる活動に参加している人々から、お話を聞いてきた。
古謡をうたう会の始まり
竹富島では、伝統芸能や祭事行事が島民の暮らしの中で大切に受け継がれてきた。
琉球列島において古謡とは、古代の歌謡、昔の歌謡という意味があり、神事で唱えられる願いの言葉がうたとなったり、健康や五穀豊穰を願う島人の心をうたにしたりしてきた。他にも男女の恋愛や労働、遊び、人物評など、あらゆる事柄をうたにしてきた。古謡は、その土地の暮らしの中から生まれ、うたい継がれてきたことから、その土地の暮らしの歴史や記憶が刻まれた生活史のようなものなのではないかと想像する。
八重山地方には、多くの古謡が残っているとされている。特に伝統文化を大切にしている竹富島では、現在でも祭事行事が脈々と受け継がれていることから、祝いの席や、祭り舞台での奉納芸能(狂言や舞踊)などにも古謡を聴くことができる。
竹富島では、昭和33年(1958年)ごろから島民が集い、古謡愛好会「ユンタ会」を立ち上げ、先人から受け継がれてきた島の文化的財産とも言える「うた」の継承に励んできた。会が始まった当初は、参加者の家々が会場となり、順番に家を回りながらうたの練習をしていた。長い歴史の中では、会の継続が難しく活動が途切れた時期もあったそうだが、それでも暮らしの中で、祭事や行事にうたわれる古謡は途切れることなく繋がれてきた。現在は、毎月10日と25日に約10〜15名ほどの島民がまちなみ館(竹富島の公民館)に集い、長老の講師を筆頭に古謡を学び合いうたっている。
若い人に古謡を継承してもらいたい
竹富町民族芸能連合保存会で会長を務めたこともあり、現在の「古謡の会」では、指導者として会員にうたを指導している竹富島出身の前本隆一(まえもと りゅういち)さんは、幼少の頃から、暮らしの中でうたわれてきたアヨーやジラバ、ユンタ、ユングトゥなどの古謡を、祖父の膝の上で聴きながら育ったと話す。
「ユンタ会」で集い始めた当初は、前本さんの父親が歌詞を紙に書き、それを隆一さんがガリ版印刷で会員の為にプリントを作っていた。
「当時は、主にユンタを中心にうたっていました。ユンタの多くは、労働の場でうたわれてきた労働歌です。皆んなで助け合うという意味の『ゆいまーる』から『ゆいうた』ともいい、畑仕事などを協力し合いながら行うときにうたっていました。曲調は、ゆるやかなアヨーなどに比べるとややはやく、リズミカルでうたっていても楽しい気分になります。島の人にとって『うた』は、生きがいでした。苦しい時も、悲しい時も、『うた』が心のささえとなって働くことができたのです」(前本さん)
八重山の古謡は、アヨーやジラバ、ユンタ、ユングトゥと4つに分類することができ、現在の「古謡の会」では、これらを前本さんが講師となり会員と共にうたい継承している。
「若い人に参加して欲しいです。若い人が習わないと、うたう人がいなくなり、うたが消えてしまいます。でも中々若い人は会に参加しない。困ったねえ」と苦笑する前本さん。
この日は、豊年祭(プイ)のうたをうたう日として呼びかけたところ、通常の倍ほどの島民が集まり、中には若者も参加していた。
昔から「うた」が好きだった
竹富島のいんのた集落(西集落)出身で古謡の会のメンバーでもある新田初子さんは、若い頃からうたうことが好きだったと話す。奉納芸能の舞台などでうたわれる古謡などは、自分自身が踊り子だったこともあり身近に感じていた。
今から約50年前、沖縄が本土に復帰したころ、新田さんが当時民宿を営みながら暮らしていた家(現在の新田観光)の隣には、日本最南端のお寺「喜宝院」(きほういん)があった。当時の住職であった上勢頭亨(うえせど とおる)氏は、毎日朝と晩に新田さんを訪ねてきてはお茶を飲みながら様々な話をしてくれたそうだ。
「亨さんは、幼い頃からうたが好きで、うたが上手なお婆さんがいれば、あちらのお婆さん、こちらのお婆さんと帳面を持ってうたを習いに行っていたそうです。たくさんのうたを覚え記録してきた亨さんは、元気なうちに習ったうたをこの先にも残したいという思いから、『うたを教えるから習わないか』と声をかけてくれました」(新田さん)
新田さんは、同じ集落に暮らす女性たちに呼びかけ、上勢頭さんからうたを習った。
「うたっていて楽しいのはユンタですね。労働歌のユンタは、明るいから。楽しいです」(新田さん)
うたい継がれるということ
新田初子さんは、「うた」を同じかたちのまま残していくのは難しいことなのだと話す。長い時間の中で口伝でうたい継がれてきた「うた」は、時には歌詞が変わって伝わっていくこともある。そして、それが記録として本や、その他の紙面などに記された時は、今までうたい継がれてきた歌詞とは違っていたとしても、それが後世に残り伝わっていくものになる。複雑ではあるが、うたい手が少なくなり、記録を残さなければ消えてなくなってしまうことを考えると、仕方のないことなのかもしれない。
譜面のない世界との出会い
東京都出身の酒井潮(さかい うしお)さんは、約26年前に竹富島の風土や文化に魅せられ島に移り住んだ。現在の古謡の会のメンバーの中では最年少の酒井さんが、古謡に惹きつけられたきっかけは、竹富島の種子取祭でうたうアヨーとの出会いだった。
酒井さんは、種子取祭のユークイでうたわれる「イヌガダニアヨー」の旋律に心を奪われたと話す。
「種子取祭が終わった後も、うたを忘れたくない、覚えていたいと思い続けていました。島の人にも『あんただけ種子取祭が終わってないね』なんて言われるほど、ずっとうたい続けていました。そんな時に古謡の会のことを知り、通うようになりました。アヨーやジラバ、ユンタ、ユングトゥと習いますが、本当はアヨーだけ習いたいほど僕はアヨーが好きです。ゆっくりとうたうアヨーは軽快なテンポでうたうユンタと比べると難しいです。でも僕は、難しければ難しいほど惹かれるところがあり、それは自分たちが西洋音楽教育で習ったドレミファソラシドの黒い鍵盤と白い鍵盤に置き換えられない音程だからだと思います。違いがあればあるほど魅力を感じるんです。譜面のない世界、自分たちが無くしてしまった音楽がそこにはあるのではないかと思うんです」
うたの記憶
古謡には、譜面がないからこそ生まれる独特な味わいがある。古謡に添えられる伴奏は、ドラと太鼓の打楽器だけだ。メロディーはうたい手それぞれが記憶している音程でうたい継がれてきた。その記憶は、例えばその人のお婆さんがうたっていたものであったり、近所のおじさんがうたっていたりしたものかもしれない。それぞれが記憶しているメロディーでうたうことから、微妙なズレも発生する。酒井さんは、そのズレこそが「あじ」だと思うし、それがおもしろいのだと話す。
「自分たちの、楽譜がある世界の常識とは全く違い、ある音程から始まってもそこから自由自在に音程が変わりながら進行する古謡のあり方が凄いと気づいたんです。西洋音楽がベースにある自分には、中々真似できない世界です。でもそれを壊したいというのが自分のテーマとしてあります」
酒井さんは歴史に興味があり、うたの中には一般では伝わっていないような歴史の記憶が刻まれていたり、秘密が隠されていたり、またその記憶を紐解く鍵が隠されていたりするのではないかと想像している。
「うた」でひとつになる
酒井さんは古謡の会が好きで、その理由を話してくれた。
「集まるメンバーは、各集落の色々と経験を積んできた島の中心核でもあるような人たちなんだけど、皆んなうたが楽しくて、和気あいあいとしているんです。横隔膜の共鳴によってみんながひとつになってしまうから、上下関係が消滅してみんな子どもみたいになってしまうんです。自分みたいに一番若い人でも、仲間に入れてもらえる感覚が嬉しいし楽しいです。
ユンタには、ゴスペルなんかと共通するものがあって、自分たちのうただっていう意識が相当あったのではないかと思います。共鳴しあうあの雰囲気、うたでひとつになる。古謡の会の時もそうだけど、祭でうたう時もハーモニーが生まれ、それに包まれて一体感が生まれます。毎月10日、25日は、古謡の会で集まってうたい、高揚するし、一体感が生まれるし、皆んな幸せになって帰っていくんです」
酒井さんと同年代の人は古謡の会には参加していない。「どんなきっかけでも良いので若い人に参加してほしい」と酒井さんはいう。島で暮らしているならば、流行りの歌謡曲をひとつ覚えるよりも、島のうたをひとつ覚える方が、精神的な深みを感じることができるのだと酒井さんは信じている。
八重山の島々には、たくさんの古謡が残っている。時には同じうたもあるが、島ごとに音程が変わっていたり、歌詞が変わっていたりする。そして、その違いこそが島々の個性であり魅力だ。
先人たちが生活風土の中から生み出してきた「うた」、そこには島の歴史と人々の記憶が詰まっている。古謡は、まさに島人のアイデンティティーそのものである。
竹富町古謡発表会
竹富町古謡発表会は2年に一度開催されます。詳しい開催場所・日程は開催年の夏頃に竹富町教育委員会社外文化課にお問い合わせ下さい。(次回は2025年の秋口に西表島にて開催予定です。)
HP:竹富町教育委員会社外文化課
主催:竹富町民俗芸能連合保存会
共催:竹富町教育委員会