しまのま
生活と文化とわたし

ソメイヨシノが咲かないこの島で、子どもたちの門出を見守る真っ白な花―テッポウユリが今年も卒業の季節に合わせ、その大きな蕾を開いて見せた。
4月になるとテッポウユリは開花の最盛期を迎える。県道沿い、畑のあぜ道、海岸、公園の花壇…島中あちこちで見せる優美な姿に、みな思わず目を細める。
桜が“日本人の心の花”ならば、テッポウユリは“島人の心の花”。
そう言っても過言ではないほど、テッポウユリと沖永良部島の間には長くて深い歴史がある。

それは110年以上も前のこと。アイザック・バンディングというイギリス人商人が来島し、島人にユリを栽培するようすすめたのが始まりだ。バンディングが乗った難破船が島に漂着したとか、ユリを求めて来島したとか諸説あるが、どちらにしても彼は島に咲く野生のテッポウユリの美しさに魅せられたのだろう。

これがきっかけとなり沖永良部島の人々は、作物としてのユリの栽培に取り組むようになった。たゆまぬ努力により完成した高品質の球根は高値で取引され、島の主要産業に成長。戦争や数々の苦境を越え、「エラブリリー」の名で世界各国へ輸出されるまでになった。

しかし1980年代に入ると、オランダ産に押され徐々に球根の輸出量が減少。冷凍輸送技術が向上したこともあり、現在は切り花の生産が主体となっている。

「好きだけじゃやっていけない」

「えらぶゆり」のブランドで年間200万本(※)以上を出荷する沖永良部島は、日本一のテッポウユリの産地だ。球根作りから切り花の出荷まで、一貫して島内で生産管理。2020年には切り花などの観賞用植物としては全国で初めて、地域の農作物や食品のブランドを守るためのGI(地理的表示保護制度)登録を受けた。

(※)令和2年度、沖永良部花き専門農業協同組合とJAあまみ知名事業本部の出荷本数合計。その他に個人出荷もある。

まさに“伝統ある名産地”なのだが、生産者たちの頭を悩ませている問題がある―後継者不足だ。
高齢化と人口減少が進む離島において、いかにして若手を育成するかというのはどの産業にも共通する課題。
しかしテッポウユリの場合、他の農作物や花きと比べても初期投資が必要なため新規就農のハードルが非常に高いのだと言う。

若手ユリ農家の一人、東寿光さんはこう話す。

「畑、倉庫、ハウス、選別機械…全部揃えるとなると1千万円では足りないですよ。ユリは種作りから始めて切り花の出荷までに3年かかりますし、ある程度知識があってもゼロからのスタートは大変です。今のマーケットを考えると、収入面でなかなか厳しいのかなぁ…」

加えてこのコロナ禍でさまざまなイベントが縮小。
卒業式、入学式、結婚式、葬儀など、テッポウユリの出番が激減してしまった。

「やっぱり好きだけじゃやれないですよ」

東さんは祖父の代から続く家業を継いでユリ農家になった。昔は農業が好きではなく、農大進学をすすめる親に反発するように工業大学へ進学…したはずが、大学4年のときに友人に誘われて始めた花屋のアルバイトが転機となった。

「毎日いろんな花が見られるのが楽しかったんです。たまに結婚式用の飾り花を手伝わせてもらってオアシスに花を挿すこともあったりして。そのときに花屋になろうって思ったんです」

それから大阪、岐阜、福岡の花き市場や花屋などを転々とし、25歳で島に戻った。
就いた職業は花屋ではなく花農家。
流通から販売まで、さまざまな現場を自分の目で見てきた経験を存分に活かし、時代のニーズに合ったユリの栽培にチャレンジしている。

東さんが作るのは、テッポウユリの中でも小輪形に分類される「プチホルン」という品種。
主流の品種「ヒノモト」と比べると半分ぐらいのサイズ感で他の花と組み合わせて飾ってもバランスがいい。

「都会では小ぶりな花が売れるということは経験から分かっていたのでプチホルンならいける!と思いました。価格はヒノモトより安いですけど、花もちや開きもいいので評価が上がってきています。オールシーズン需要があるのも長所です」

大切なのは「こういうものを作ったら、こんな人が買ってくれるだろう」と想像すること。
例え伝統作物であっても、自分で考えて工夫しなければ続いていかない。
テッポウユリ産地の未来をけん引する東さんの背中が、そう語っていた。

「ユリは島の人の誇り。なくしたくはない」

島の子どもたちに夢と誇りを

2020年10月、沖永良部島のユリの名所・笠石海浜公園で、あるギネス世界記録が生まれた。ずばり、【1時間に植えた花の球根の最多記録】だ。
小学6年生、中学3年生、高校3年生ら157人が参加し、力を合わせて1万5690球のユリの球根を植え、見事に世界記録を更新して見せた。

彼らは春には島を離れてしまうかもしれない。
コロナ禍でさまざまな学校行事が中止になる中で、「何か思い出作りを」と地元青年団が企画し、このチャレンジが実現した。

ギネス記録認定式で青年団長が語った言葉が胸に響いた。

「確かに離島にはハンデもあるかもしれない。けれどこうして、何事もチャレンジすることが大切だと思う。都会に出ても夢や目標を持って、沖永良部島で育ったことに自信を持っていて欲しい」

2021年4月下旬―
ギネス記録が生まれたユリ園は、真っ白な花の絨毯で敷き詰められた。

宮澤夕加里

大阪府生まれ。大学卒業後、出版社に就職し、旅行ガイドブックの編集者として7年間勤務。2015年、大好きな沖縄に移住。ウチナーンチュになることに憧れるも、ナイチャー転勤族の夫と結婚。 2018年、初めての転勤帯同で奄美群島・沖永良部島に初上陸。フリーランスの編集ライターとして沖永良部島の魅力を発信する一方で、友人らと「えらぶ色クレヨンプロジェクト」を立ち上げ、島の自然を活かしたものづくりにも精を出している。

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